LUCAS MUSEUM|LUCASMUSEUM.NET|山本容子美術館


CAFE DE LUCAS


01

ルナ+ルナ

色彩の美しさを際立たせる見事な分量の計算に心血を注いだマティスは、メリオンの大壁画「ダンス」の色彩のバランスを見るに当たって、晩年に絵画に代えてもっぱら手がけることになる切り紙絵の手法を用いてもいた。初めに何点かの習作を33×

87cmのカンヴァスに油彩で描いたが、それをもとに何倍も大きな作品をつくるのは無理だと感じ、ほぼ実物大の画面に切り紙を留めて、チェスでもするように色を塗った切り紙の配置を変えては構図を練ったのである(*9)。だからもしマティスがいま生きていて、コンピュータのディスプレイ上でいかようにも色の配置の入れ替えができたら、きっと大喜びしたに違いない。ただ、彼の場合は紙を切り抜く作業をデッサンに見立て、最終的に作品に何らかの形で手業を加えることに表現者として意義を見出していたようなので、コンピュータで事足りるとは考えないだろうが。
 試行錯誤の果てに思いも寄らない配色で息をのむような美しい画面をつくることこそ、マティスが〈色彩の魔術師〉と称えられる所以だが、もう1つ、印象派など多くの画家たちが他の色が濁るからと通常はパレットには置かなかった〈黒〉を実に表現力豊かに用いていることも特徴だろう。マティスが残した芸術に関する文章や談話が収録された『マティス 画家のノート』(二見史郎訳、1978年、みすず書房)は、以前から折にふれて取り出しては読んできたが、その中でも、黒は単に暗闇や影の色ではなく、「ウルトラマリンを加えた黒には熱帯の夜の暑さがあり、プルシャン・ブルーを加味した方には氷河の冷気がある」(*10)というくらい多様なニュアンスをもたせられる、1つの色彩だとしている。
 この本では、豊かで鋭い色彩表現ゆえに〈野獣(フォーヴ)〉と呼ばれたマティスが、その呪縛から逃れて新たな道を見出したのが2度のモロッコ旅行だったことも知った。1912年1月から4月半ばまで、及び10月から翌13年2月半ばまでをモロッコのタンジールで過ごしたマティスは、滞在中に風景や民族衣装をまとったモロッコ人を主にペンとインクにより無数にデッサンし、〈モロッコ3部作〉として知られる「窓から見た風景Paysages vu d’une fenêtre」(115×80cm)、「テラスにてSur la terrasse」(115×100cm)、「カスバの門Porte de la casbah」(116×80cm)などの油彩画も制作した。
 色彩でいうならば、青、緑、黄色、そして黒。モチーフでいうならば、窓からの風景、植物、金魚、民族衣装の人々が繰り返し登場するのである。回顧展では次の時期に区分されている1914年から16年ごろにも、フランスへ戻ったマティスはアトリエでモロッコの影響の色濃い作品を描いている。また、1920年代の〈オダリスク〉のシリーズにしても、モロッコから持ち帰った民族衣装を着せた女性モデルがモチーフだ。

 

Next>>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*9 「ダンス」は最初に完成作としようとしたもののサイズが間違っていたとわかり、別に再制作してメリオンに設置。その後、先の作品に新たに手を加えて仕上げられたものはパリ市近代美術館に収蔵され、〈パリのダンス〉として知られている。1992年、さらにその前に制作された〈未完成のダンス〉も発見されて、現在は2点が一緒に展示されている。

*10 「色彩についての覚え書」(1962)より。パリのジャック・デュブール画廊での「アンリ・マティス、水彩画、素描展」のカタログに発表された文章である。

 

 

page top

Copyright©2007 Office Lucas All Rights Reserved.