美術館に常設展示されている作品の中には、よその展覧会場ではほぼめぐりあう機会のないものがある。その館の目玉となっているような名品ならば、それを目当てに訪れる観客のためにも、なるべく常に展示しておきたいことだろうし、移動によって劣化する恐れがあるとか、その館でのみ公開するとの条件付きで寄贈を受けたといった理由で、外部への貸し出しを行なっていない場合がある。また、貸し出しが可能でも、借用料や輸送料、保険料など借りる側の負担が高額で、実現には至らなかった例があるとも聞く。そうした門外不出の作品は、壁画やモニュメントと同様、そこに行かなければ見られないというわけである。
それだけに、旅先で大規模な企画展に遭遇したときは、何をおいても見てみるようにしている。限られた会期・会場で、ある趣旨のもとに集められた貴重な作品群に出会えるというのは、幸運以外の何ものでもない。
これまででいちばんそれを実感させられたのは、1992年秋、ニューヨークの近代美術館(MoMA)で見たマティスHenri Matisse(1869‐1954)の大回顧展(「Henri Matisse: a retrospective」)である(*1)。MoMA所蔵の「ダンスI La danse (I)」(1909年、259.7×390.1cm)とともに、同じモチーフによるサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館所蔵「ダンスII La danse (II)」(1910年、260×391cm)が展示されるのをはじめとして、フランス、ロシア、アメリカ各地など世界中からマティスの傑作がやってくるらしいと、周囲で早くから話題になっていた。東西冷戦終結後だからこそ実現したともいえる、文字どおり画期的なこの企画は、20世紀も終わりに近づいていた当時、「今世紀最大」と謳われるのももっともなスケールで準備されていたのである。
前評判が高い企画展は、当然ながら大混雑が予想される。その年の3月、パリのグラン・パレで開催中のロートレックHenri de Toulouse-Lautrec(1864‐1901)の回顧展へ出かけると、混雑緩和のために月・木・日曜以外は予約制になっていた(*2)。座席数に限りのあるコンサートや芝居ならばともかく、美術展の入場に予約が必要というのは初耳だ。その日はたまたま月曜だったからかろうじて当日券が買えたものの、翌日から南仏へ行くことになっており、危うく見逃すところだった。
9月24日開幕のマティスの回顧展も予約制とわかり、9月22日から1週間、ニューヨークに滞在することに決めた。その期間内に必ず見られるように、早々に予約の手配を現地に住む知人に頼み、〈9月25日金曜午後2時から〉の入場指定券がとれたとの連絡を受けての出発だった(*3)。いまでこそ、ゆっくり鑑賞してもらうために企画によっては日時指定の予約制を導入している美術館が日本にもあるが、あのときは入場の日にちばかりか時間までが指定されることに驚いたものだ。
0
0
*1 MoMAの「アンリ・マティス回顧展」のカタログは480ページ、厚さ3.5センチ、重さ2.8キロと、展覧会の規模を物語る異例のボリュームがある。
Henri Matisse: a retrospective, John Elderfield, 1992, Museum of Modern Art / Distributed by H.N. Abrams
*2 「トゥールーズ=ロートレックToulouse-Lautrec」展はロンドンのヘイワード・ギャラリーからの巡回展で、フランスでは国立美術館連合の主催により2月から6月まで開かれた。作家の故郷アルビのトゥールーズ=ロートレック美術館が所蔵するものに加え、ヨーロッパ、ロシア、アメリカの個人コレクターや美術館から貸し出された約200点が展観され、フランスでは1964年以来のこの回顧展に65万4000人が訪れたという。
*3 入場指定券の正価は12ドル50セント。会期後半には先々まで予約がいっぱいで、世界中からやってきた旅行者が一両日中に見たい場合は券をダフ屋から購入するほかなかった。あまりの盛況ぶりに、12月に入ってすぐ会期の1週間延長が決定。1月19日までに約90万人が来場した。
12月20日(日)午後4時~4時半の入場指定券。左上に小さく時刻が打たれている