LUCAS MUSEUM|LUCASMUSEUM.NET|山本容子美術館


CAFE DE LUCAS


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ルナ+ルナ

一方、パリ近郊に生まれ、ニューヨークで育ったニキは、18歳で最初の夫と結婚後、神経衰弱の治療のために絵画制作に励むようになる。初めて立体作品に取り組んだ際、鉄の台座をティンゲリーにつくってもらったことから2人の交流が始まった。60年末、ニキはロンサン袋小路へ越してティンゲリーとアトリエを共有する。
 アーティストとして最初に注目を集めたのは、61年2月から2年ほど続いた「射撃Tir」のシリーズだ。絵具を入れたビニール袋や缶を白い石膏レリーフに埋め込んで本物のライフル銃で撃ち、飛び散った絵具が絵を完成させるというもの。アトリエ裏での第1回射撃セッションに参加した美術評論家ピエール・レスタニPierre Restany(1930‐2003)は彼女を〈ヌーヴォー・レアリスム〉のメンバーに迎えた(*8)。この過激なパフォーマンス・アートの時期を経て、65年から「ナナNana」シリーズの女性像に代表される丸みを帯びたシルエットの彩色彫刻を制作するようになる。アメリカを中心に、幾何学的形態による〈プライマリー・ストラクチャー〉の彫刻作品が原色(プライマリー・カラー)を用いて注目されるようになる少し前のことだった。
 ところで、噴水のある広場は作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキーIgor Fyodorovitch Stravinsky(*9)の名前を冠していて、そこにつくられた噴水彫刻もまた「ストラヴィンスキー噴水La fontaine Stravinsky」という。IRCAMの録音スタジオや無響室などの施設が音響的に外部からの影響を受けにくいようにと、ポンピドゥー・センターとは別棟で、しかも地下につくられた結果、地上にこの広場の空間ができた。IRCAMの初代所長に就任したピエール・ブーレーズPierre Boulez(1925‐)は、敬愛する先達の名前を冠した広場が何もない砂漠のような光景であるのを憂い、パリ市にティンゲリーによる噴水彫刻を設置するよう提案することになったのだった。
 1981年に噴水設置計画がもち上がって以降、1983年3月16日に落成式を迎えるまでのドキュメントをまとめたアートブック『ジャン・ティンゲリー、ニキ・ド・サンファル ストラヴィンスキー噴水』(*10)と、落成後の「ボザール・マガジン」(*11)のティンゲリーへのインタヴュー記事によれば、依頼を受けたティンゲリーは、パリ市側にニキとのコラボレーションを申し出ている。隣のポンピドゥー・センター前広場の大道芸に通じるにぎやかさを演出するには、鮮やかなニキの色彩が必要だと感じたのだ。
 ただし、1年間、広場で太陽の動きと風を観察して彫刻の設置場所や水を噴出させる方向を検討しながら、ニキの色彩と自分の黒い機械との役割分担を考えた。その結果、日中は黒のほうが目立つため、機械の精密な動きを見せることにし、夜は色彩部分にだけ照明を当てて、機械は闇に沈むようにしたのである。野外に設置されるものだからこそ、夜の闇もまた一つの展示空間としてとらえられる。このように作品の特徴を対比させる彼の考え方から、光ばかりか闇の存在を知ってとても興味深く思われた。

 

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*8 レスタニは身の回りの製品や廃品を用いた造形やパフォーマンスを含む表現をヌーヴォー・レアリスムLe Nouveau Réalisme(新写実主義)と名づけ、60年10月、イヴ・クラインYves Klein(1928‐62)やアルマンArman(1928‐2005)、ティンゲリーら8名の美術家とグループを結成。61年にはセザールCésar(1921‐98)やニキら4名も加わった。

*9 ロシア人作曲家ストラヴィンスキー(1882‐1971)は、ロシア・バレエ団のディアギレフSergei Diaghilev(1872‐1929)の委嘱で作曲した『火の鳥』(10年)、『ペトルーシュカ』(11年)、『春の祭典』(13年)がパリでの初演で大反響を巻き起こし、前衛作曲家として名を馳せた。第1次大戦とロシア革命によりスイスを経てフランスへ、第2次大戦によりアメリカへと移り住み、亡骸はディアギレフと同じヴェネツィアのサン・ミケーレ島に眠っている。

*10 Jean Tinguely, Niki de Saint Phalle. Strawinski-Brunnen Paris (Jean Tinguely & Niki de Saint Phalle : la Fontaine Igor Strawinski über dem I.R.C.A.M., Centre Georges Pompidou), 1983, Benteli Verlag.

*11 Beaux-Arts Magazine, mai 1983, n°2.

 

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