次に、公園を川のほうへ歩いてゆくと、同じく石の「沈黙の円卓」(高さ80cm、直径215cm)があった。その周囲に、12の円形の座面の椅子(高さ55cm、直径45cm)が等間隔で並んでいる。天板にしてはあまりに厚ぼったい石が2枚重ねられた円卓は、ブランクーシの作品によく見られる彫刻の台座のようだ。一般に、彫刻は展示の際に別途、何らかの台座が設けられるものだが、彼の場合は台座もまたさまざまに形や大きさが練り上げられた作品のうちで、上に載った彫刻とともにアンサンブルをなしているのである。念のため椅子に腰かけてもみたが、円卓の上で何かをするには遠すぎて、やはり、円卓や円卓の上に置かれた何ものかを見るための椅子だと感じた。これもまた、円卓と椅子という形を借りた彫刻作品なのだ。
今度はそこから英雄通りの反対の端にあるはずの「無限柱」を目指した。道のりの半ばに教会があって通りを阻んでいたが、建物沿いに迂回すると、天高くそびえる「無限柱」が視界に入った。木彫のジグザグ形を再現すべく考案された細長い算盤球のような鉄の8面体が、1つずつ鉄柱に通して積み上げられ、高さ29.35mにもなったものだった。8面体の表面には黄金色の真鍮の被膜がかかっていたという。設置から長い年月が経ち、ブランクーシが意図した輝きは失われているようだったが、素材と大きさを変えた紛れもない「無限柱」の連作の1つが凍った大地から空へ向かって建ち上がっていた(*9)。
「無限柱」の先の野原に「沈黙の円卓」を一回り小さくした〈祝祭の円卓〉と呼ばれるものがあった。未完成としか思えないその円卓を目にして、ますますこのアンサンブルの作品自体はどれも台座に相当し、上に何らかのイメージが載ることによって初めて完成作としての宇宙をもつのではないかという印象を深めたのだった。「無限柱」を台座だと考えると、空の中にはどのような像があるのだろう。暗い灰色の空が「無限柱」に重くのしかかる天を見上げて想像してみた。
このアンサンブルは、1935年、当時の首相夫人でもあったゴルジュ県婦人連盟会長より、第1次世界大戦でジウ川の土手を守った英雄たちのための記念碑と市民公園の門という2点の制作を依頼されたことから始まったプロジェクトだが、門の設置に着手したところで、ブランクーシが3点目として「沈黙の円卓」を加え、まったく独自のコンセプトのもとに仕上げたものだ。それを知ると、深遠な哲学の存在に思いを馳せたくなる。実際、彼は石や木を刻み、ブロンズを磨きながら、表面的なミニマリズムとは裏腹に、手業を通して素材に何かを吹き込み、単純化というよりはむしろ純化された世界を創造した作家だと思う。空の中には、純粋が形となって浮かんでいたのかもしれない。
ただ、トゥルグ・ジウのあとにホビツァ村の生家を訪ね、オルテニアの農村地帯を巡ってみて、たとえば抽象化の結果としての「無限柱」の形状のルーツが故郷にあったことが見て取れたのも事実だ。玄関から壁沿いに家をぐるりと一周するように連なって屋根を支える柱は、すべて鑿跡もくっきりとジグザグ形に刻まれていた。
翌日はオルテニアからトランシルヴァニアに入った。シビウの街に着き、3階のホテルの部屋で一休みしていたら、外から歌声が聞こえてきた。観音開きの窓の向こうに大きなモミの木が立っていて、歌声は手を取り合って木の周りを回る子どもたちのものだった。窓を開けて流れ込む冷気の中で、その澄んだ声にしばし聞き入った。
*9 Brancusi's Endless Column Ensemble: TârguJiu, Romania, 2007, Scala Publishersによれば、『無限柱』の黄金色の被膜は完成以来何度かかけ直されていたものの、国内の他の建築物や他のアンサンブル作品と同様、チャウシェスク政権時代に損傷が進んだ。1990年代までにかなり深刻な状況となっていたが、ワールド・モニュメント財団の支援で2000年にアンサンブルのすべてが修復されたという。