ともかく無事に旅程を終えられたのは、髭をたくわえた〈ハーツ〉のおじさんの助言のお蔭である。冬でエンジンがかかりにくいため、毎朝の始動時にはチョーク・ノブを1時間引っ張って暖機運転をすること、路上の家畜は他人の財産だから絶対に轢かないようにといった注意のほか、店では手に入らないという道路地図をつねに携行せよと渡してくれて、ドル建てのガソリン・クーポン(*3)を買えという。このクーポンは旅行者だけの特典だから利用しない手はないといわれても、その場では半信半疑だったが、翌日、ルーマニア社会主義共和国立美術館(現ルーマニア国立美術館)に寄ったあと、クライオヴァ方面への高速道路に乗る前に給油しておこうという段になって、給油が可能なのは〈ハーツ〉でもらった地図に載っているスタンドのみで、1回当たり10リッターまでだということが判明。どのスタンドにも給油待ちの長蛇の列ができている状況下で、絶大な力を発揮したのが件のクーポンだった。それを提示することにより、一般の車よりも優先的に給油が受けられたのである。命綱の地図を片手に燃費計算をし、目的のスタンドが見えてくるたび窓を開けてクーポンをふりかざしながらの道中が始まった。
そのころのルーマニアは暗い国だった。節電のため、夜になっても屋内灯の半ばとすべての街灯は消えたまま。ワラキア平原を走っていると、のどかな田園地帯のあちこちで突然、油井が炎を噴き上げ、石油が採掘されているのは一目瞭然だったが、そのほとんどはオイルショック後の対外債務を返済するために輸出され、国内では電力もガソリンも食料も不足していたのだった。
意外な出来事は高速道路上でもあった。「馬車通行可」の標識を発見したのである。高速道路で土地を分断された地元の人びとが、反対側へ横断するために馬車で高速に入ってきて別の出口から下りてゆくのだ。目の前に馬車が出現して、車とのあまりの速度の違いに驚く間もなく、あわや追突かという場面もあって、一度ならず肝を冷やした。その後、幹線道路で馬車とはよくすれ違い、馬車がごく一般的な乗り物であるとわかったが、〈ハーツ〉のおじさんに予告されていた家鴨や鶏の飛び出しには最後まで慣れなかった。実はこの旅へはカセットテープレコーダーを持参して、できるかぎり音を録っていた。だからその録音テープには、運転中の自分と同乗者の数々の悲鳴や怒声、急ブレーキ音が生々しく残されている。
*3 ガソリン・クーポンは68ドルだった。当時の為替レートはプラザ合意後、急速に円高が進んだ時期で、1ドル=約200円。クーポンは1万4000円程度となる。