LUCAS MUSEUM|LUCASMUSEUM.NET|山本容子美術館


CAFE DE LUCAS


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ルナ+ルナ

創作の特徴としては、モチーフの多くが、同じ種類の素材を用いて形態を変化させながら、あるいは、基本的な形態はほぼ同じだが素材や大きさを変えて、一定期間繰り返し制作され、連作となっていることがある。形も、直方体、卵形、円筒形、柱状などの要素が反復して表れている。
〈接吻〉のモチーフは、1907年からほぼ40年間という最も長きにわたって制作が続けられ、石の直(じか)彫り(*6)のまま1作ごとに形態の単純化が進んだ例だ。クライオヴァ美術館蔵の第1作は、抱擁し合う2人の目と目、口と口、胸と胸は密着していても、頭や身体の丸みは別々のシルエットになっている。ところが、1916年制作のもの(高さ58.4cm、フィラデルフィア美術館蔵)では、1本の角柱を二分した2つの身体に頭髪が波線で刻まれ、1940年代のもの(高さ71.8cm、パリ・国立近代美術館蔵)に至ると、角柱の太さはほぼ1人分に狭まり、二重円となった2人の目の真ん中に縦線が走る形にまで抽象化されている。
 素材を変えたものとしては、石彫や木彫から型取りしたブロンズ像の連作が、いくつものモチーフについて制作されている。その場合、鋳造には必ずブランクーシが立会い、最終的に周囲のものが映り込む黄金色の鏡面となるまで自ら手で研磨して、1点ずつ別個の作品として完成させた。その仕上げは非常に精妙で、エドワード・スタイケン(*7)が購入したブロンズの「空間の鳥 L’Oiseau dans l’espace」(1926年、高さ135.3cm)は、細長いプロペラを連想させ、アメリカの税関が機械部品とみなして課税しようとしたとの有名なエピソードもある。
 鑿(のみ)跡を残した素朴な石や木の作品と、シャープな磨き込まれた金属の作品の双方があるのも、ブランクーシという彫刻家の特異性を表しているのだろう。トゥルグ・ジウを訪れてその思いはさらに強くなった。

 街の西端を流れるジウ川のほとりに市民公園があり、そこから1.5キロほどにわたって〈英雄通り〉が伸びていた。まずは石造りの「接吻の門」(高さ5.27m、幅6.58m、厚さ1.84m)が通りから公園の敷地に少し入ったところに建っているのが見えた。どっしりした両の柱は、「接吻」の石彫の目と目が合体して出来た二重円がさらに巨大化し、2つ割りの桃のような形で上部に刻まれた角柱だ。また、柱の上に渡された楣石(まぐさいし)を埋め尽くしているのは、モンパルナス墓地の墓石の上に置かれている「接吻」の連作中唯一の全身像(1909年、高さ89.5cm)が図案化されたものである。まさしく「接吻の門」なのだ(*8)。想像以上に門の柱にボリュームがあり、楣石は威圧的にさえ思われた。くぐってみたが、どう考えてもそれは門ではなく、門を象った彫刻作品だった。

 

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*6 19世紀の彫刻の技法の主流は、オーギュスト・ロダン Auguste Rodin(1840‐1917)に代表されるような、粘土で肉付けしたあと、石膏原型像をつくるものだった。それを職人がブロンズに鋳造したり、弟子らが大理石に彫って再現したりして生まれたのが、ブロンズ像や石彫であった。
 ブランクーシも当初はロダンに倣って粘土と石膏による制作をしていたが、自らの手で鑿を握り、石を彫る直彫りに回帰することで独自の方向性を見出した。
 1ページでふれた彫刻の森美術館の石膏の「接吻」は、ブランクーシがクライオヴァ美術館蔵の石彫を自ら石膏で抜いた作品である。

*7 写真家エドワード・スタイケンEdward Steichen(1879‐1973)は、20世紀の初めに何度かパリに滞在するうち、ブランクーシと知り合い、作品のコレクターの1人となった。1914年には、アルフレッド・スティーグリッツAlfred Stieglitz(1864‐1946)とともにニューヨーク五番街で運営していた美術画廊〈291〉で、ブランクーシのニューヨークでの初個展を開催してもいる。

*8 トゥルグ・ジウでの印象を絵にした作品の中に、ジウ川を背にして見た「接吻の門」を描いた。門の向こう側へまっすぐ〈英雄通り〉が伸びている。

山本容子「TÎRGU JIU/exchange」1989年、エッチング、19.5×27.5cm

 

 

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