高速道路にはピテシュティの手前にサービスエリアがあり、レストランでチョルバ(スープ)とパンを頼んだ。食べ慣れないものを無理やり流し込む羽目にならないようにと、事前に銀座にあるルーマニア料理店に通って郷土料理のメニューを憶えたのだが、2日間滞在した首都ブクレシュティで、これは是非とも本場で食べようと思っていた料理が出てきたことはついぞなかった。たいていの食堂はセルフサービスで、パンを取って、お椀に羊の出汁のスープをもらうだけ。石のように硬いパンを手でほぐして塩味のきついスープに入れ、かきまぜてどろどろになったものを立って食べた。選択の余地はなかった。ところが、その高速道路のレストランのスープには肉片が入っていた。そのかわり羊の毛もたくさん浮いていたので、息を吹きかけて毛を遠くへ押しやっては、素早くスプーンですくわねばならない。それでもセルフサービス店のものよりはおいしかった。
食後にコーヒーを飲んで、煙草を2箱買った。不慣れな旅先でつねに気になるのは、このときはまずガソリンだが、通常は水と軽食、それが充足されると当時は煙草だった。煙草にロマンの香りを感じていた時代らしく、銘柄を選ぶ基準はニコチンの量ではなくパッケージデザインである。ルーマニアでも各地で2箱ずついろいろな銘柄を買ってみたが、〈ウニレアUNIREA〉のパッケージをマッチとともに旅の資料ファイルに残したのも、デザインの美しさゆえだった(*4)。
さて、ブクレシュティから180キロほど西を南北に流れるオルト川を越えると、オルテニア地方に入る(*5)。クライオヴァに到着したのは19時近くだった。翌日は朝からクライオヴァ美術館へ行き、いよいよオルテニアの中でも北西の高原地帯にあるゴルジュ県のトゥルグ・ジウへと向かった。
ブランクーシは1876年、トゥルグ・ジウ近郊のホビツァ村の自由農民の家に生まれたが、幼いころから家出を繰り返し、13歳のときにやってきたクライオヴァで美術工芸学校に通うようになる。木箱を材料にして制作したヴァイオリンの出来栄えが周囲の人びとに認められたのがきっかけだという。木工や金工などの技術を学んだ後、22歳でブクレシュティの国立美術学校へ。
彫刻家としての道を歩み始めた彼は、28歳となった1904年の5月、ブダペスト、ウィーン、ミュンヘン、チューリッヒなどを経て、フランス北東部オート=マルヌ県のラングルまで徒歩で移動。友人に送金してもらってそこから列車に乗り、〈7月14日(ル・キャトルズ・ジュイエ)〉の祝日で賑わうパリへ着く。その後、セーヌ左岸の国立美術学校に学び、晩年にはフランス国籍を取得して、モンパルナスのロンサン袋小路のアトリエで1957年3月16日、81年の生涯を閉じている。
*4 煙草のパッケージは真っ赤な地に、赤と紺と白の3色からなる楕円の中に金色で向かい合うライオンが描かれたマーク入りである。そのマークに沿ってラテン語の「NEC PLUS ULTRA」すなわち「極上」の文字が。「団結」といった銘柄名のわりに優雅なデザイン。価格は23レイ(Lei)だった。マッチのほうは20バニ(Bani)(=0.2レイ)。
当時の両替票によれば、1ドルが約11.25レイなので、1レウ(Leu。レイの単数形)は約20円である。
ちなみに、2005年7月に1万分の1のデノミが実施され、新ルーマニア・レウ(RON)に切り替えられた。1新レウは約41円(2008年1月現在)。
*5 ルーマニアは大きく北東部のモルダヴィア、中部・北西部のトランシルヴァニア、南部のワラキアの3つに分かれる。北をトランシルヴァニア・アルプス、南をドナウ川に囲まれたワラキアは、オルト川を境にして、東側がムンテニア地方、西側がオルテニア地方。