LUCAS MUSEUM|LUCASMUSEUM.NET|山本容子美術館


CAFE DE LUCAS


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ルナ+ルナ

フランス第2の都市リヨンは、活版印刷術が伝わった後、16世紀から本の町、印刷の町として発展してきた歴史をもつ。旧市街の15世紀の建物に設けられた印刷博物館には、現代に至るまでの印刷機や鉛活字、写植、活字本をはじめ、版画、ポスターのコレクションがあり、刷る術と刷られたものの変遷が手にとるようにわかる(*4)。初期の銅版画作品でアルファベットの鉛活字をハンコのように捺していた自分としては、多様なデザインの鉛活字を眺めるのも楽しかった。エッチングのグランドにもハードグランドとソフトグランドの2種類があり、ハードグランドではニードルを使った線だけで画面を構成することが主になるが、現在も技法として用いているソフトグランドだと、バンドエイドや木の葉、毛糸などでも、捺すとテクスチャーが写し取られる。鉛活字を捺した場合は、本来はアルファベットという文字が刻印されているのに文字としては見えず、といってそれ自体は絵でもなく、強いていうなら文字が絵の素材になるおもしろさがある。
 さて、木版画の次に生まれた版画技法が銅版画である。こちらは1430年頃のヨーロッパが発祥の地だ。金細工師が金・銀・銅製の食器や燭台類に彫り込んだ装飾文様を転写して残そうと考えたのがはじまりのため、ビュランという鋭利な刃物で銅板をじかに彫って溝をつくる〈エングレーヴィング〉がまず広まった。エッチングが登場するのは16世紀初めになる。甲冑などの装飾に金属を腐蝕させる方法を用いていた武具職人が生み出した背景から、最初期は金属板のなかでも鉄板が版の素材となっている(*5)。
 このヨーロッパ中世の版画の黎明期を語るうえで欠かせない人物といえば、ドイツの画家、アルブレヒト・デューラーAlbrecht Dürer(1471‐1528)だ。ニュルンベルクの金細工師の家に生まれた彼は父親のもとで家業の修練を積むが、画家になろうと思い立ち、15歳の秋、画家の工房に入る。画家も他の手工業のように職人とみなされていた時代のこと、祭壇画と木版画を制作する親方(マイスター)のもとで徒弟奉公をし、木版の下絵描きと彫りの技術を学んだ(*6)。年季が明けた後は、やはり当時の習わしだった通過儀礼(イニシエーション)として遍歴の旅に出た。少なくともバーゼル、コルマール、ストラスブールに滞在して、木版画などに従事したことが知られている。そのライン川上流地域はイタリアと並ぶエングレーヴィングの先進地だった。
 デューラーは北方の伝統にイタリア・ルネサンスの理想を取り入れた、北方ルネサンスを代表する画家だが、実際に2度、1494年9月から翌年晩春までと1505年秋から07年初めにイタリアに滞在している。実は、テレビ番組の仕事で彼のイタリアへの道程をたどったことがある。ドイツからイタリアへ旅した人物といえばもう1人、『イタリア紀行Italienische Reise』を著した文豪ゲーテJohann Wolfgang von Goethe(1749‐1832)がいる。ゲーテの旅とデューラーの旅とをあわせたその番組で、ワイマールを発(た)ったドイツ文学者の池内紀氏とインスブルックで合流し、ローマまで向かったのだった。1997年のことだ。

 

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*4 印刷博物館の創設は1964年。かつては市議会も置かれた歴史的建造物がリヨン市に寄贈されたことから、地元で印刷業を営んでいたモーリス・オーダンMaurice Audin(1895‐1975)がそこに博物館を開くことを提案、膨大なコレクションを提供して創立学芸員となった。

*5 1510年頃、アウグスブルクの武具職人だったダニエル・ホプファーDaniel Hopfer(1470頃‐1536)が鉄版エッチングで最初に版画を制作したとされる。よく磨いた鉄板に蠟を塗り、ビュランで絵を描いて腐蝕させた。

*6 デューラーが弟子入りしたのは画家ミヒャエル・ヴォルゲムートMichael Wolgemut(1434‐1519)。当時、ヨーロッパでも屈指の印刷所を営むアントン・コーベルガーAnton Koberger(1440頃‐1513)からの注文により、ヴォルゲムートの工房では大量の木版画の下絵が描かれ、彫られていたという。なお、コーベルガーはデューラーの名付け親でもあった。

 

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