版を刷ることによって文や画の〈面〉を複数つくり出せることを知ったとき、人びとはどれほど感激しただろう。最も古い版画技法は木版だ。下絵を木の板に裏返しに貼り、線など表したいところが凸になるよう、それ以外の部分を彫って版をつくる。だが、それを刷って図像を手に入れるには紙やインク類がなくてはならない。紀元105年に紙が発明された中国には、9世紀後半の木版による仏典が現存する。絵やたくさんの漢字を下絵から1字ずつ彫り、墨で刷ったのだ。
何らかの技術が生まれ、発達するためには、材料や道具、職人、環境などの条件のどれか1つが欠けてもいけない。日ごろから版をつくって刷ることに携わっている性(さが)で、旅行中にフランス・リヨンの印刷博物館や南イタリア・アマルフィの紙博物館を訪れ、印刷にまつわるものの発達の歴史を体感した折にも実感したことだった。
中国の製紙技術がイスラム世界を介してスペインに伝わったのは12世紀だ(*1)。地中海に面したアマルフィはイタリアの4大海洋共和国の1つとして古くからアラブ諸国と交易があったためか、中部のファブリアーノと並んで13世紀から製紙業が営まれたイタリア屈指の紙の町だという。紙の繊維となる主原料が木材になる前、東アジアでは植物、ヨーロッパでは木綿や亜麻のボロ布が用いられていた。アマルフィの博物館内には製紙工場があり、実際に手漉きの紙を製造している。昔ながらの作業として、木綿の衣類を裂いて水中で叩く工程を解説つきで実演してくれた。印象的だったのは、水を溜めるところの内側にタイルが張られていたことだ。紙を伝えたイスラムの国々が想起された。繊維を絡ませるのに必要な粘り気は、魚からとった糊。滝のある峡谷の豊富な水で紙が漉かれてきたのだった。ちなみに、その峡谷は〈水車の谷Valle dei Mulini〉と呼ばれている。
それまで〈紙〉といえば羊皮紙(パーチメント)か牛皮紙(ヴェラム)(あるいは犢皮紙)だったヨーロッパでは、ウンベルト・エーコUmberto Eco(1932‐)の『薔薇の名前Il nome della rosa』でも描かれていたように、本は修道院のなかの写字室(スクリプトリウム)でつくられる〈彩飾写本〉だった。テキストの写字生も装飾の細密画家も修道士(*2)。高価な皮紙をたくさん使った聖書の詩篇や福音書を読むのは聖職者か一部の支配層に限られ、本の需要もさほど多くはなかったのかもしれない。紙が供給されて、木版は14世紀後半から護符や礼拝像づくりに利用されるが、木版画が盛んになるのは、15世紀半ばにドイツのマインツでグーテンベルクJohannes Gutenberg(1400頃‐68)が活版印刷術を発明したあとのことだった。活字本の挿絵として多用されてゆくのだ(*3)。
*1 長らく中国で秘法とされていた製紙技術は、4世紀に朝鮮へ伝わり、そこから日本へは610年にもたらされたが、イスラム圏に広まったのは751年に唐がアッバース朝とのタラスの戦いに敗れたのがきっかけ。まずサマルカンドに工場ができ、ペルシアやエジプトを経てムーア人がスペインに伝えた。
*2 彩飾写本は、美しいカリグラフィで綴られた本文テキスト、章頭の装飾された大文字(イニシャル)、テキストの周囲を彩る縁飾り(ボーダー)の文様、余白を埋める挿絵などで構成される。先にテキストと装飾の位置を決め、装飾箇所をあけてテキストから書かれた。大文字の中は細密画(ミニアチュール)が鉛丹の朱赤や金銀箔で光り輝いていた。
この本のカバーにその一葉があしらわれている。
The Art of Illuminating, W. R. Tymms & M. D. Wyatt, 1987, Chartwell Books, Inc.
*3 1500年までに印刷されたものは、ラテン語で〈ゆりかご〉の意の〈初期刊本(インキュナビュラ)incunabula〉と呼ばれる。当初、印刷術は写本の再現が目標だったため、カリグラフィを模した活字をつくり、テキストの印刷後、彩飾は従来どおり画家が行なった。