LUCAS MUSEUM|LUCASMUSEUM.NET|山本容子美術館


CAFE DE LUCAS


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ルナ+ルナ

絵を見るにも、画面の大きさや技法、モチーフなどによってそれぞれ最適な距離がある。さまざまな表情の線と余白の妙を味わう銅版画や木版画の場合は、30センチほど。ちょうど本を手に持って眺めるときと同じくらいのアンティームな距離がいい。
 銅版画のなかでも主に〈エッチング〉を手がけるようになって35年になるが、きっかけは大学の先輩の制作風景を見学したことだった。京都市立芸術大学に入学するとすぐ、西洋画、日本画、彫刻、工芸、デザインと、さまざまな学科の部屋を回った。美術にも多様なジャンルがあるのだ。最後に訪れた版画の教室で、初めて銅版画のプレス機に出会ったときのことはいまでもよく憶えている。木造の教室に鉄の塊のプレス機が並んでいて、印刷工場のようだと思ったのである。
 掌にのせた銅の板に背を丸めて鉄筆で絵を描いている先輩たちの姿は、絵を描くというよりは何か緻密な文章でも書いているかに見えた。すると、銅板を持って席を立つ人がいる。描き終えた銅板を腐蝕液に浸ける工程に移るためだった。バットに薄いブルーの液体が張られている。希硝酸だった。かすかに酸の臭いがし、化学の実験室を思い浮かべつつ、薄暗い室内で手元だけを照らして作業をする様子から錬金術師の工房が想像された。希硝酸にそっと銅板が浸されると、小さな泡がぷくぷくたち上ってくる。銅板には防蝕剤のグランドが塗られていたが、絵を描いてその膜がはがされ、銅が露出していた部分が酸の力で溶け出しているのだ。観察しているうちに、線は溝になり、徐々に絵が浮かび上がってくる。先輩にどのぐらいの間、こうして腐蝕させるのか尋ねると、1時間ほどだという。知らなかった世界に出会うことはこんなにも楽しいものなのか。複雑な制作工程はまるで手品のようだった。腐蝕が済むと、銅板からグランドをはがし、ベンジンをかけて丁寧に拭き取っていた。
 次はプレス機の横で、出来上がった版の溝に練ったインクを詰める。余分なインクは拭き取る。溝に入ったインクのみを紙に吸い取らせるためだという。掌の細かい皺を利用して仕上げる先輩の掌は真っ黒になっていった。続いて、プレス機のプレートの上に版をおき、少し湿気を含んだ紙をのせて上からフェルトをかける。鋼鉄製のハンドルを回すと、上下2本のシリンダーの間を版が通過し、そのときに大きな圧力が版と紙にかかる。木版画のようにばれんをかけるぐらいの圧力では、うまくインクが紙に写し取られないのだ。ハンドルは重く、回すのにはかなり力が要るようだった。先輩がフェルトを取り除くと、下にある銅板がまるごと紙に食い込んでいた。かかった圧力の大きさが見てとれる。そして、そっと紙をはがすと、反転した銅版の線が紙に写っている。インクが盛り上がり、美しかった。エッチングを始めたいと思ったのはその瞬間だった。

 

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