「薔薇の茂みの若者」のヒリアードは、エリザベス1世の治世でそれを集大成した人物だった。宮廷画家を務めながら金細工師でもあった彼は、ホルバイン作品の描画技術を手本にしつつ、楕円形の画面の枠に革紐や鎖が通せるような加工を施したり、金銀、真珠などの宝石をあしらったりして、装身具としての魅力を高めたといわれる(*8)。愛しい相手のミニアチュール肖像画を肌身離さず持ち歩く風俗が見えてくるようだ。時代が下るにつれ貴族から市民階級へと広まったミニアチュール肖像画は、19世紀の写真の登場で打撃を受けて最終的には姿を消すのだが、写真とは似て非なるアンティームさをもったコスモスが失われてしまったのはとても惜しいことだ。
数日後、シェイクスピアが生まれ育ち、没したイングランド中部の町、ストラットフォード・アポン・エイヴォンへ向かった。宿としたシェイクスピア・ホテルからは、シェイクスピアが晩年暮らしたニュー・プレイスの家の庭が見下ろせた。博物館となっている彼の生家で往時の生活空間に身を置き、彼の時代にも咲いていたという花々の匂いをかいだ。旅の締めくくりに、町のアンティークショップで求めたのは、女性の一方の瞳だけを描いたミニアチュールのブローチだ。枠が真珠で縁取られ、絵の面にガラスがはめ込まれている。その形式は〈アイ・ミニアチュール〉と呼ばれ、18世紀後半に流行したものとしてⅤ&Aにも展示されていたのだった。
たくさんのCDと書籍を抱えて帰国した。ダウランドの曲のなかには、エセックス伯爵ロバート・デヴァルーRobert Devereux, 2nd Earl of Essex(1566‐1601)の名を冠したリュート曲や合奏曲があり、ヒリアードの「薔薇の茂みの若者」のモデルは、V&Aの前館長ロイ・ストロング卿Sir Roy Strong(1935‐)の研究により、エリザベス1世の寵臣となりながらも、最後は女王廃位のクーデターを企てて処刑されたエセックス伯その人である可能性が指摘されていた(*9)。エセックス伯の謀反に加担したとして処罰された友人のサウサンプトン伯爵ヘンリー・ライアススリーHenry Wriothesley, 3rd Earl of Southampton(1573‐1624)こそ、シェイクスピアが30歳のころ、自分のパトロンになってくれるよう懇願し、詩を献呈した相手。研究者たちからソネットの青年貴族と目されている1人だった。
謎解きはさておき、やはりソネットに詠われた感情のすべてを理解するのは無理なことに思われた。ならば、対象との距離感を絵で表現すればいい。見えそうで見えない。見たいところが切れている。そんなもどかしさは覗き穴から見た世界ではないのか。壁、床下、天井、鍵穴、雲間……、いろいろな形の穴からいろいろに覗くということで、銅板そのものを不定形に切り、そのなかに穴から覗いた世界として絵を描こう。
45×60cmの銅板に防蝕膜としてグランドを厚く塗り、3ミリほどの太い線でアトランダムに楕円を描いた。それを一晩、塩化第二鉄の腐蝕液に浸け、さまざまな表情の〈穴〉を手に入れた(*10)。塩化第二鉄に侵されてところどころ傷がついていたが、それも腐蝕中に生まれた〈時間〉の染み、痕跡のようなものだ。1点ずつ詩を読みながら、インスパイアされたテーマに合いそうな穴の形の銅板を選んで描画していった。覗き込んだ世界の輪郭はぼやけるはずだから、版のエッジの部分は汚した感じに仕上げた。それによって穴の向こう側にある空気を表現できるのではと。
*8 ヒリアードの時代、〈写本を装飾する〉という英単語は〈リムlimn〉を用い、ミニアチュールは〈リムニングlimnig〉と呼ばれていた。潮江宏三氏によれば、ヒリアードが晩年に書いたミニアチュールに関する論文『リムニング芸術論The Art of Limning』は、草稿のままながら存在が知られ、そのなかで彼は肖像画の重要性を説き、ミニアチュール肖像画の王侯貴族による実践を推奨しているという。
なお、ヒリアードの弟子アイザック・オリヴァーIsaac Oliver(1560頃‐1617)は、画面に光と影の対比による立体感を加え、より表現の完成度を高めた。
*9 エリザベス朝の王侯貴族のミニアチュール肖像画の用途は、その後の時代とは異なる要素が含まれていたようだ。貴婦人を崇拝する騎士道的恋愛をベースに、女王からは寵愛の印に、廷臣たちからは忠誠の印に、互いの肖像画を交換し合ったものらしい。絵の背景には、武芸の試合で掲げる紋章に入れるのと同じ自分のモットーを銘として描き入れた。ちなみに、「薔薇の茂みの若者」の銘は「愛のまことゆえの苦悩Dat poenas laudata fides」。
*10 線を描いた部分のグランドをはがして腐蝕させると、露出した銅が溶けて銅板が切り取られる。ここで用いた塩化第二鉄は銅をまっすぐえぐるように腐蝕するため、非常にシャープな線が彫られる。それに対し、希硝酸で腐蝕させるとニュアンスのある線になる。エッチングでは描画の技術だけでなく、グランドや腐蝕液の使い方によっても異なる線が得られる。