その翌日に早速、市内南西部サウス・ケンジントンのV&Aを訪ねた。目当ての「薔薇の茂みの若者」は、工芸品の展示を中心とした本館の北西端に隣接する別棟、ヘンリー・コール・ウィング4階の、イギリスの〈ポートレート・ミニアチュール〉の展示室にあった(*6)。CDジャケットに載っていた絵はミニアチュール作品だったのである。イギリスにはミニアチュールの肖像画が1つのジャンルとして存在していることを知ったのも収穫だったが、1つのテーマを追いかけるうちに、出会いが次の出会いを呼び、しかも旅先で一気に物事が展開してゆくことに興奮を覚えた。
ミニアチュールの展示室内は、作品保護のため全体に照明が抑えられていて薄暗かった。展示ケースに近づくと、センサーが感知してケース内の照明がついたが、1分経つか経たないかのうちにぱっと消えてしまう。ケースごとに照明のタイム・スイッチがついていたのだ。主に縦が10センチに満たない楕円形の画面の肖像画群のなかで、ひと回り大きな「薔薇の茂みの若者」はすぐに見つかった。作者ヒリアードはやはりシェイクスピアと同時代の画家と判明した。だが困ったことに、鮮やかな色彩と繊細な筆致の細部を見ようとすると照明が消える。じっくり見たいのになかなか見せてもらえず、照明がつくのを待って繰り返し画面を覗き込んだ。
V&Aのポートレート・ミニアチュールの2000点にも上る一大コレクションは、羊皮紙(パーチメント)よりもさらに上質な子牛皮から作られる紙、ヴェラムに描かれた16世紀半ばから17世紀までのものと、その後、厚さ1ミリほどの象牙に描かれたものの2つに大別される。ヨーロッパ中世に発達した彩飾写本の挿絵が独立したという成り立ちから、前者は彩飾写本と同じ技法・素材が用いられている。絵具は藍銅鉱(アジュライト)などの鉱物や植物、昆虫といった原料を画家自らが粉にしてつくった顔料だ。日本画でも使用する赤色の鉛丹(えんたん)もその1つ(*7)。手づくりした顔料にアラビアゴムなどを加えて粘性を出し、リスや黒貂(セーブル)の毛の極細の筆を用いて水彩で描いたが、薄くなめしたヴェラムは半透明になるため、彩色しない面を白く塗り、トランプや厚紙で裏打ちが施されたという。
手の込んだミニアチュールの肖像画の基礎をイギリスで完成させたのは、ドイツ出身のハンス・ホルバイン(子)Hans Holbein the Younger(1497頃‐1543)だ。宗教改革によって得意とする祭壇画の注文が見込めなくなり、イングランドへやって来てヘンリー8世(1491‐1547、在位1509‐1547)の宮廷画家となった。その主な仕事は王族の肖像画を描くこと。北方ルネサンス絵画の精緻な表現を身につけていた彼は、イングランドで彩飾写本画家からミニアチュールの技法を学んだのである。
*6 ヴィクトリア&アルバート美術館は、建築、家具調度、金工、染織、服飾、陶磁器、ガラス器、楽器など工芸やデザインの世界最大のコレクションと、彫刻や絵画、版画、デッサン、写真ほかの膨大な作品を収蔵している。
1851年のロンドン万博の収益とその際に購入した展示品をもとに、翌年、産業博物館として開館した。1857年、現在の地に移転し、サウス・ケンジントン博物館と改称。ヴィクトリア女王と夫君アルバート公の名を冠するのは1899年のことだ。
絵画の収集は1857年、寄贈作品の受け入れを発端に開始され、イギリス派油彩画は1897年のテート・ギャラリー設立により収集が中止されたが、水彩画とミニアチュールの豊富なコレクションを有する。別棟に名を残すヘンリー・コール卿Sir Henry Cole(1808‐82)は万博開催を推進した官吏で、美術館創設に尽力した。
なお、現在は大規模な改築計画が進行中で、ポートレート・ミニアチュール展示室は本館3階にある。
*7 〈ミニアチュール〉の語源は、鉛丹を表すラテン語〈ミニウムminium〉から派生した〈鉛丹を塗る〉意の〈ミニアーレminiare〉。