LUCAS MUSEUM|LUCASMUSEUM.NET|山本容子美術館


CAFE DE LUCAS


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初めてフランスを訪れたのは30年前のことだ。当時、私は20代半ば。芸術への熱い思いと期待を胸に、あこがれのパリに降り立った。ところが、若き画学生の情熱は、無情にもあっさりと肩透かしを食らってしまう。
とにかく、どこへ行っても子ども扱い。フランス語で話すことができなかった私は、まず鼻にもかけてもらえない。まだ世間の何たるかもわかっていなかった私の目には、そんな風に自分を扱うフランス人の態度は、ただ「いじわる」としか映らなかった。
 ホテルも忘れがたい。サンジェルマン大通り近くのプチホテルは、両隣からはさまれて立つ細長い建物。どこもかしこも薄暗く、窮屈な階段はぎしぎしと盛大にきしむ。手動のエレベーターが1台あったが、黒い鉄製のそれはまるで鳥かご。乗ったが最後、閉じ込められてしまいそうで、とても利用する気にはなれない。部屋には、ぶっきらぼうにベッドとクローゼットが置かれているだけ。おまけにこのクローゼット、立て付けが悪くて何度閉めてもふわぁっと開いてしまう。
 夜になっても大通りからの喧騒は絶えず、学生らしきグループが次から次へと近隣のバーに集まってくる。時折、雄叫びや酒瓶が割られるような音が聞こえてくるので、おちおち眠ってもいられない。
 「フランス人って怖い」すっかり萎縮してしまい、状況を楽しむ余裕など全くなかった。要は過剰反応していたのだ。その界隈が「パリでもひときわ賑やかな場所」で、泊まったホテルは「隠れ家風のいかにもパリらしいしつらえ」だったと知ったのは、ずいぶんと後になってからだ。
 それから何度となくフランスを訪れた。パリはもちろん各地で美術館を見て回った。はじめてのパリ行きから25年が過ぎた頃、芸術的な美しさに探究心を刺激され、フランス料理を学び始めた。すると、より知識を深めたくなり、フランス語も習うようになった。今でも、時間のある限り、週1回のペースでフランス語のレッスンを続けている。こんな風に、芸術への欲求に突き動かされていくうちに、いつの間にか、フランスは私にとって格別な親しみを覚える国へと変わっていった。
 2年前、「パリに滞在しながら絵を描いてみないか」という話をもらった。断る理由はない。これまでも旅の思い出を作品にしてきたし、“旅の手帳”を持参して絵日記をつけてはいたが、生活者の目で作品を制作するのは初めての経験だった。この時の「画家がパリと遊ぶ」日々と作品たちは、『パリ散歩画帖』(阪急コミュニケーションズ)におさめられている。
 こうして10日間だけパリの住人となった私。16区の高級住宅地にある短期滞在者向けアパルトマンには、作品の制作にもってこいの大きなテーブルと、本格的な料理のできるキッチンが備わっていた。いつもはお土産中心になってしまう買い物が、生活者となると「今日の食材」にとって代わる。マルシェ(市場)を隅々まで歩いていると、色とりどりの野菜や果物などがなんともセンスよくディスプレイされているのに目を奪われた。これまで遠くから、旅行者としてパリの美を享受してきた。しかし、一歩中に踏み込んだことで、この町の美意識の高さが、単なる「観光客向け」のパフォーマンスでないことを実感する。フランスというのは、ほんとうに「見ること」を大事にし、敬意をはらっている国なのだ。
 この滞在中、パリ市南部を車で走っている時のこと、工事用フェンスで囲われた中に芝生の道が拡がっているのを見た。近く開通(2006年12月)をひかえた路面電車の軌道だという。「芝生の真ん中を走るの ?」びっくりすると同時に楽しくなった。見渡す限りの「エメラルドの帯」は、路面電車が通らない時間は犬の散歩でもできそうに思えた。通り道、というよりも住人の憩いの広場といった風情だ。なんと潤いのある光景だろう。聞くところによると、その後周辺には1000本の樹が植えられ、木陰にはベンチが置かれ、沿線の公園とひと続きになった景色が見られるのだという。また開通にあわせて、クリスチャン・ボルタンスキーら現代美術の作家9人の作品も設置されたそうだ。
 利便性が高く、エコロジカルな乗り物として、いま世界中で注目の路面電車。だが、それをあえて機能のみにおしこめず、「見ること」も心地よい、楽しい空間に変えてしまう。フランスのそんな懐の深さ、感性の豊かさに私はとても惹かれるのだ。パリを訪れるたびに覚えるリラックスした気持ちも、そこに由来している。

 以前から抱いていた「フランスに住みたい」という思い。短い期間ながら、住人となってパリとの距離をぐっと縮めたこの滞在以降、その思いは日増しに強くなっている。

山本容子

パリ散歩画帳
2006年11月5日 阪急コミュニケーションズ刊
定価:1800円(税別)

 

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